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オイラ目線の-ジャパンカップ史 80年代-90年代-2000年代の日本外洋ヨットレース史

日本を離れてマレーシアに住み始めたのが、2007年の夏。
ブログが流行り始めたのがこの頃で、じゃやってみようとexcite blogに日記風の記事を書き始めたのが2008年4月から。

しばらく放置です | Nippon Offshore Racing Council
ここでも以前取り上げた「無線通信と外部の援助」について、「on Breeze」にも改めて書いたんですけどね。ジュリーの方から何か意見をいただけないかなと思...

日本のヨット界のあれやこれやを中心に2012年2月まで結構な記事をアップした。
その中で、「ジャパンカップ史」というカテゴリーがあるので、ここに改めてまとめておきます。全15話、ちょいと加筆しつつ……いやここには書き足さない方がいいなぁ。記事を書いた時点の自分の思いということで。
2009年以降はいずれ書きたそう。

■第1話 1983年

2008/09/27記

別件で資料を捜すため、古いKAZI誌をひっくりかえしていたら、99年の秋に葉山で行われたジャパンカップの記事が目に付いた。
 10年ぶりにジャパンカップを取材したという松本和久氏は「異種格闘技にも似たその戦い」とジャパンカップの凋落ぶりを嘆いている。
 ありゃー、今と同じじゃないですか。

記事中、松本氏は、
「日本一を裏付けるために不可欠なステイタスそのものが、今や完全に崩壊している」
とし、本来、スポーツ競技には、「理想の勝者像」というものがあって、「それに相ふさわしい者が勝つようにルールは設定されている」
「その競技・大会を魅力あるものとして存続させるために、理想の勝者像を共通認識として持つことは不可欠なのではないか?」
とし、ジャパンカップには、その共通認識が無いという。

なるほど。書き方は違うけど、ここでワタシが何度も書いている「フォーマットが必要」と同じ意味なんだろうと思う。
10年前から、結局変わっていないという事ですね。

松本氏は、KAZI誌の中ではディンギー系の記事を多く書いている人で、外洋系の事情にはちと疎い所があるかもしれない。
何故ジャパンカップでは理想の勝者像が共通認識できないのか?
これは、「外洋ヨットの日本一」という定義自体に無理があるからだ。
どこかで妥協しなければ、この定義に沿った勝者像を造り出せないわけだが、どのように妥協するかのコンセンサスが得られていない。

葉山大会が開かれるに至った経緯を考えると、この時は良くぞ開催にこぎ着けたと評価しても良かったかもしれない。なぜなら、98年には、参加艇不足で中止にまでなっているのだから。

これまで、自分自身が選手としてJCに出ていた時は文句ばかり言っていたが、取材する側に回るといろいろな事が見えてくる。
「二度と関東のJCには出ない、って書いといて」と言った関西のオーナーもいた。実際、ヒドイ運営の時もあった。
一方、「二度とやりたくない」と言った主催者側の役員もいた。
開催する方だって、参加者が憎くくて意地悪しているわけではないのだ。

自分ではジャパンカップの運営側に回ったことはないが、もっと大きな大会の運営を行ったことはある。レガッタ開催の大変さは良く分かっているつもりだ。

このままでは、主催する側も参加する側も、お互い不幸になるだけではないか。
ここは一つ、それぞれの立場から自分の意見をハッキリ言うべきで、それしか打開策はないのではないか。
そう思って、このブログを立ち上げた。

ボツボツと意見を書き込んでいただけるようにもなった。

ワタシの意見はだいたい書いた。
自分の意見ばかり書いていてもしょうがないので、ここらでちょっとこれまでのジャパンカップを振り返ってみようと、資料を漁ってみた。
問題点を探り出すことができるのではないかと考えたからだ。

懐かしいなぁ。
いろんな思い出が、走馬燈のように巡る。

これ、全部取材して写真集めて記事にしたら、ちょっとした大河ドラマになるなぁ。KAZIに話を持ち込んでみよう。
等と考えつつ、感慨にふけってしまった。

とりあえず、取材はメンドクサイので、自分の記憶にある限りで書いてみる。

第一回のジャパンカップは、1983年11月に熱海で開催されている。
このあたり、手元にあるKAZI誌は、自分で記事を書き始めた1991年の物からしかないので、ちょっと曖昧な記憶から書いてみる。
1982年にはハワイで行われたパンナム・クリッパーカップで<飛梅>が優勝しており、78年には佐島でクオータートン世界選手権。また1977年にはアドミラルズカップに日本チームが出場しているくらいだから、日本国内でジャパンカップが開催されても当然、のヨットレース熱だったんだと思う。
逆にいえば、日本のヨット界に於けるジャパンカップの歴史は、さほと長くない。

この大会、自分自身も大橋さん設計の36ft艇に乗せて貰い、参加している。3位だったと思う。
優勝は<スーパーサンバード>。
これは、82年のパンナムクリッパーカップの出場艇で、この年の春、僕がハワイから回航してきた船だから良く覚えている。
つまり、当時のIOR40フッターは、太平洋横断に耐えうる造りだったという事だ。<飛梅>も往復自力回航だ。

この頃、僕は毎年のように、ハワイから日本までの航海をしていたわけで、中でもこの艇は最小サイズだったにもかかわらず、実に楽な航海だったのを覚えている。

第1レース。かなりの下有利なスタートラインで、ロバート・フライヘルムのスーパーサンバードがピンエンドからポートタックで全艇の前を切って全速力でスタートしていき、「やられたー」と思った記憶がある。
覚えている方いますか?

いや、ま、そういうレベルだったって事です。

このあたり、記憶だけで書いているので、別のデータがあったら修正してください。

(ジャパンカップ史はこの後も続く)
 つーか、今回は、ほんのサワリだけ

■第2話 熱海にて

2008/09/28記

熱海でのジャパンカップは、88年まで続いた。

その頃、ハワイのパンナム・クリッパーカップはケンウッドカップと名前を変え、隔年開催されており、日本のセーラーにとっては憧れのレースとして成長していた。ジャパンカップはその予選、という位置づけに感じていた方も少なくないと思う。

今思えば、あの頃の目標はあくまでもケンウッドカップであり、その先には世界の頂点アドミラルズカップが遠く霞んで見えていた。

個人的には、熱海のジャパンカップは、83年の後は最後となった88年に<海太郎>に乗せて貰ってちょこっと参加したくらい。
この頃はすでに外人の助っ人セーラーを乗せるというスタイルも見られた。
<海太郎>に乗ったピーター・レスターと一緒に大野屋のローマ風呂に行き、
「世界で一番大きな風呂だ……」
とつぶやいたのが可笑しかったのでよく覚えている。

なんたって、総大理石でギリシャ彫刻があっちにもこっちにもあるような大浴場であるから、日本人からしても驚いちゃうような風呂なわけで、ニュージーランド人がビックリするのも分かる。

……と、温泉観光地、熱海であるから宿泊施設や食事場所には困らない。
当然、今のマリーナはまだできていないので、各艇アンカー打って岸壁に槍付けだったが、当時はそんなもんなので、別に不満でも無かった。

なんだか観光気分もあり、熱海遠征はなかなか楽しい思い出として残っている。

■第3話 89年 城ヶ島

2008/09/29記

熱海は陸側のファシリティーは申し分なかったのだが、いかんせん水深が深く、運営が大変だったらしい。
で、ジャパンカップは89年から三浦に場所を移した。

城ヶ島の岸壁に、アンカーを打って槍付け。
主催者としては、泊地の確保に苦労したのではなかろうか。お疲れ様です。

この年、僕は高井理さん設計のワントナーで出場している。
IORはすごい進化の真っ最中で、ケンウッドカップを目的に作られたこの船は、重量集中の為に、インサイドバラストのみ。キールはすべて木製のダミーという、極端なものだった。
ケンウッドカップでの成績はぱっとしなかったもようで、となると、強風仕様で建造された船でのジャパンカップではなおさらぱっとする訳ないですね。
ということで、成績は……忘れた。

外人助っ人として、ロバート・ソルトハウスが乗艇。前年海太郎に乗ったピーター・レスター派閥の人で、ミスマッチと言われたアメリカズカップのKZ7に乗っていた人。

ニュージーランドの中でも、ブラックマジック派閥とは異なるようで、その後のアメリカズカップには参加していないようだが、今年のボルボ・オーシャンレースでは、ケンリード率いるプーマレーシングのクルーになっているもよう。世界のヨット界も狭いですね。

ロングは三宅周りだったと思う。
途中まったくの無風になって、
「つまんねーな」
とつぶやいたら、スキッパーの戸谷寿男さんが、
「こういう時こそ勝負なんだよ」
と言ったのがものすごく頭にこびりついていて、その後、無風でイライラしたときは、戸谷さんのこの言葉を思い出すようにしている。
が、どうしてもダメ。微風は嫌いです。

インショアは、城ヶ島沖の海面だったと思う。
潮がものすごく複雑で、当時のワタシにはチンプンカンプンだった。なんてのも記憶にある。

IORの新艇がどんどん浮いて活気はあったけれど、古い艇では勝ち目はない、という時代でもあった。

■第4話 90年 油壺

2008/09/30記

「ジャパンカップ史」というより、「ワタシのジャパンカップ史」になっちゃいますが、続けます。

1990年。個人的には、この頃すでに回航屋の会社を立ち上げていて、やたらに回航していた。

グアムレースもすでに始まっており、毎年グアムレース終了後のヨットを回航するという、無鉄砲でやくざな仕事をしていた。

この頃はグアムレースに出る船とジャパンカップに出る船では顔ぶれがガラっと変わり、住み分けができていたようにも思う。

IORは、88年頃にはすでにかなりの進化を遂げており、「ストリップアウト」なんて言葉に代表されるような極端に先鋭化したマシーンになっていた。耐候性に不安アリ、などと嘆かれていた。IORレーサーでグアムレースなんてとんでもないという状況だったのだ。

……と、そんな中、90年のジャパンカップは10月。油壺をベースに行われた。

ジャパンカップのような選手権試合では、参加艇は同じ条件で1カ所にまとめて海上繋留しなければならない。その為の泊地の確保が、この頃のジャパンカップでは一番の難問だったのだと思う。

油壺は、ご承知のように奥まった天然の良港だが、桟橋は僅かしかない。
沖止めしてテンダーで送り迎えするという方法だったと思うが、これではセールの上げ下ろしやら潮出しやら、何に付けても不便である。
早く帰ってきた船から先に桟橋を独占するという事もあり、不公平感があった。

何より困るのは、台風に左右される事だ。
台風直撃ならまあしかたがない。アキラメもつく。
しかし、漁船の避難港になっている油壺は、遠く南方海上で台風が発生しただけで多くの漁船が避難入港してきてしまう。

爽やかな秋の風が吹いている絶好のレース日和でも、早々と避難してきた漁船で湾口がふさがれ出艇できずにレースは中止。なんて事になってしまうのだ。

オーストラリアの50ft艇、<サイクロン>が遠征してきたのもこの年。通関作業など、弊社で請け負ってサポートしたので、良く覚えている。
わざわざ日本まで来てくれているのに、台風のおかげで満足にレースができず、大変申し訳ないと思ったものだ。

僕自身はダビッドソン44に乗艇。
この年の夏、ケンウッドカップに出た同じ船同じメンバーでの参戦だ。

ケンウッドカップでは、同じダビッドソン設計の1世代新しい艇に勝ったりして、そこそこの結果を残していた。ジャパンカップはその余韻を楽しむような戦いだったと思う。
成績はどうだったか……。マストを曲げた記憶はあるけど……。

ロングのコースは何マイルだったかな? 夜中に神子元を回ったのだけ覚えている。
強風下のスピンランで、ランナー付きの2トナーが夜中にジャイビングしながら本船を交わしていくっての、スリリングというより、無茶ですな。

自己責任でやってくれ、と言われても困る。

■第5話 91年 続、秋の油壺

2008/10/01記

90年の冬、<エスメラルダ>でグアムレースに出る。この後、2007年まで続いた、エスメチームとの最初の出合いである。
当時の<エスメ>はJ33です。J33でグアムレースですよ。

スタート海面を流していたら、別の大型艇に乗った庄崎さんから、
「その船でダイジョウブか?」
と、真顔で言われた。
いや、確かに。J33っていったらインショアスポーツボートですよね。

まあ、IORボートに比べたら、マストも太いし頑丈そうだ。当時のボクは、やたらに長距離航海をしていたから、グアムなんてすぐそこというイメージだった。もう夜通しスピン揚げてプレーニングしてましたよ。
当時、初採用されたIMSクラスで出場していたと思う。2位だったはず。

この翌年、<マリンマリン>と<たか>の遭難事故が起きる訳で、その後だったら、J33では出ていないだろう、とも思う。

ジャパンカップもその流れで、エスメラルダチームで出場。
といっても艇名は別で、89年とは別の中古高井ワントナーだ。

この頃のIORボートはもうものすごい事になっていて、この船なんかランナーを巻くと船がたわんでスライドハッチが開かなくなる。
「セール出すからランナー緩めて」
なんて会話をしていた。

ブルース・ファー全盛だった訳だが、あえて別のデザイナーに設計を依頼するというのもオーナーの楽しみの一つなんだろう。で、まったく走らない、なんてのも、「よーし、じゃあ造り替えるか」というモチベーションに繋がるのかもしれない。お金かかります。

この年も、台風の影響で、スケジュールはガタガタになった。
僕らとしては、船は走らないし、どーでもいいやと思ったけれど、本気の人達や海外からの遠征組はかわいそうだった。

この頃には、日本のセーラーも広く世界のレースを知り、経験を積んでいたわけで、運営側がそれに追いついて来られない……という状況にあったと思う。

この年、ジャパンカップ後に三浦でIORフィフティーのサーキットが行われた。
世界の強豪。本気の人達によるサーキットの最終戦だ。

僕は運営に携わっていた。
下見の為に、この年の春マイアミ大会に行かせてもらった。宣伝用に主催者がKAZIのページを買い、そこに原稿を書いたのが、僕とKAZIとの長いおつきあいの発端になる。

それにつけても、バブリーな大会だったなぁ。良い意味で、ですよ。

ちなみに、バブル景気というと、1987年から1991年頃の事をいうようだ。
株価の最高値が89年末。景気も90年10月をピークに低下傾向にあり、地価のピークが91年の秋。
と考えると、このフィフティーサーキット三浦大会こそ、バブル景気最後の打ち上げ花火だったのかもしれない。

■第6話 92年 春の油壺(前編)

2008/10/02記

92年からは手元にKAZI誌があるから、詳しく書ける。
92年6月号では、3月に行われた「第3回ジャパンIORワントンカップ」の記事が出ている。
僕が書いていますが、正直言ってあんまり記憶がないです。ハイ。

当時はすでにIMSが出現していて、世界のIORは衰退の一途という状況にあったようだが、日本ではまだまだ健在。というか、この頃が盛りだったようだ。

ワントンカップといっても、優勝艇はレーティング調整してもワントンに収まらなかったものの「ほぼワントン」なら出場可で、スクラッチで競う、というイベントだったようだ。

なんだかインチキっぽいけれど、ワタシが自分で書いているので、事実でしょう。
しかし、こういう妥協は必要だと思う。ここで妥協しないと、レベルレースは続かない。
この「ほぼワントンカップ」は、チャンピオンシップというより、ジャパンカップに向けての走り合わせという色合いが強かった。

関西でも、91年には大阪ベイ・トナーズクラブが結成されている。
IOR衰退といっても、アドミラルズカップはこの頃まだワントン、ツートン、50ftの3クラスで行われており、IMSはIORに代わるグランプリクラスになり得ていない。
本気のレースは、レベルレース(着順勝負)でなければならない、という事だと思う。

当時のIMSはどういう意味合いがあったのか。
同じ6月号に、「ニュージーランドの鳥羽レース」という記事が出ている。これもワタシ書きました。
面白いのは、ここで当時のボクが、
「IMSには、ちょっとお遊びのレースボートというイメージをもっていた」
と書いている事。
ふーん、そうだったんだ。

で、ニュージーランド国内ではIORレーサーが存在しないため、IMSはキャンペーンボートと呼ばれてグランプリレーサーだった、とも書いてある。

その後、ニュージーランドでは、IMSもまったく受け入れられなかったわけですが……。ま、92年はそんな状況だったようです。

ボクは<サッシー>というグレッグ・エリオット設計のIMS40ft艇に乗せて貰っていた。
当時、オークランドではバリバリのレーサーだった。
オーナーのトム・マッコールは、ケンウッドカップで活躍した<ピースメーカー>や、ブルースファーのIOR返り咲きを成功させたワントナー<エクサドア>のオーナーでもある。<エクサドア>は、日本に売却され、そのままの艇名で走っていましたよね。
そうそう、活躍した外国艇を、艇名そのままで買ってくるというのも、この頃流行っていたのかな。

この<サッシー>、バリバリのレーサーといっても、乗っているのはわりと普通のおじさんだった。あるいは、業者系の方。アメリカズカップなどで活躍するプロセーラーは、国内のこの手のレギュラーレースにはほとんど出てこない。

ヨットスコードロン(RNZYS)からは、ユースプログラムの若いセーラーが派遣されて来ていた。
彼らはパピーズ(子犬ちゃん)と呼ばれていたが、そのうち1人はその後ブラックマジックに、もう1人は長距離系に進み、前回のボルボオーシャンレースでは、<パイレーツ・オブ・カリビアン>のワッチキャプテンを務めていた。出世したもんだなぁと感慨にふけると同時に、この頃のユースプログラムが、とてもうまく機能していたのが分かる。

サンディエゴでのルイビトンカップが始まったのがこの年の1月。
初チャレンジのニッポンは、善戦するも敗退。
5月9日からいよいよカップ本戦が始まる。

……と、こんな世相の中で行われたジャパンカップ。

90年、91年と、秋の油壺で行われ、台風の影響でスケジュールがガタガタになってしまっていた。正直いって、まともな選手権試合とはいいがたい結果に終わっている。
そこで、この年から、台風の心配がない春、ゴールデンウイークに行われる事になった。

ところが、ゴールデンウイークに行われていたミドルボート選手権は、当時最盛期を迎えていたわけで……。
(つづく)

■第7話 92年 春の油壺(後編)

2008/10/05記

92年のジャパンカップ、正式名称は、
「CORUM JAPAN CUP INTERANTIONAL OFFSHORE SERIES 1992」高級腕時計メーカーコルム社がスポンサーに付き、シャンパンマム・ワールドカップに含まれる世界イベントとして開催される。

すでにIMSクラス(参加7艇)も儲けられているが、やはりメインはIORクラス。
A、B、2クラスに分かれており、Bクラスの上限をレーティング30.55ft、つまりワントンの上限に設定してある。
そのBクラスに集まったワントナーが8隻。(関東5隻、関西3隻)
ジャパンカップではハンディキャップレースだが、同時にスクラッチでも集計し、これを「ワントン太平洋選手権」としている。

Aクラスも2トナーを中心に中身は充実。(関西3隻、関東2隻、フランス1隻)
フランス艇は、昨年のアドミラルズカップの優勝チームだ。

以上、IMSも含めて参加21隻。
このうち、9隻は、この年の夏ハワイで行われたケンウッドカップに出場している。

おそらく、出場艇のレベルはジャパンカップ史の中でもピークを迎えていたのではないかと思われる。

で、大会はどんな雰囲気だったのか。
ボク自身は、同時期に同じ場所で行われていたミドルボート選手権の方の取材をしていたので、詳しくは見ていない。

が、KAZIの記事を見ると、国際ヨッティングジャーナリストのマルコム・マッキーグという人が、
「ジャパンカップに期すること」
と題して、事務サイドの問題点をいくつか指摘している。

○日程発表の遅れ
 秋から春へ移動するという決定が遅かった
○参加艇が複数の泊地に散らばったこと、
○成績発表を拒んだこと
 これを「国際プレスは決して許さない」と大変手厳しい。
○海外からの参加が少ない
 これは、チャイナシーレースと日程が重なった事によるとしている

等、1ページに渡って書いていおり、最後は、
「現時点ではジャパンカップはどちらかというと、ひそかに行われているといった感があるが、これは変えていかなければならない」
と結んでいる。

また、KAZIの編集長も1ページまるまる使って、
「さまざまな教訓を得た、ジャパンカップ」という記事を載せている。
ここでは、
○昨秋に続き春の開催ということで、準備期間が短い
○ワントン太平洋選手権の知らせは、大会2~3週間前に知らされたため準備が間に合わなかった艇もあった。
○レース数についても艇長会議でもめる
等の問題点をあげ、
「もっともっと主催者と参加者のコミュニケーションを図り、国際レースとしても相応しい、日本独自のレース文化を作り上げていく時期にさしかかっているのではないだろうか。
(中略)
ジャパンカップは、主催者、参加者ともに様々な教訓を得て、国際レースとしての本格的な、大きな一歩を刻んだ」
と結ばれている。

カドがたたないようには書かれているが、普通、こんなことでページを割きませんよ。
参加者と主催者の間で、かなりギクシャクしたものがあったものと思われる。
自分自身でこれまでの何回かのジャパンカップに出場していたので、このギクシャクを想像できる。

面白いのは、マッキーグ氏が、
日本ではIORボートが未だ健在であることを「励みになる」と書いていること。
この頃すでにIMS艇はルールチートが始まっており、「IORが20年かけてやったことをIMSは2年で行おうとしている」と嘆いている。

と、まあこれは置いておいて、肝心のレースの方は、

インショア 3本
ショートオフショア(155M) 1本
ロングオフショア (216M) 1本
の計5本で行われた。

得点は、ショートオフショア1.5倍。ロングが2倍だから、合わせて3.5倍。インショアは3本しかないので、ロングの方が得点配分が大きい事になる。

そして、ショートオフショアでは3艇しかフィニッシュできず、ここで勝負はほば決定してしまったようだ。

Aクラス優勝 <コルムルビー>
Bクラス優勝 <チャチャII>
IMSクラス優勝 <ドリームピック>

ワタシの記憶では、この頃、特にワントン勢はロングを楽しんではいなかったと思う。
そんなあたりも、主催者側と参加者の間のギクシャクになっているのではないかとも思う。

そして、この年起きた決定的な問題は、例年この時期にこの海域で行われていたミドルボート選手権との連絡がきちんとできていないのに、ジャパンカップを強行したことにある。

ここでの細かな経緯は知らない。後年、ジャパンカップ関係者から、
「この時にボタンの掛け違いがあった」
と聞いている。
ミドルの関係者は、
「我々は閉め出された」
と憤慨している。

当時のジャパンカップには、主催者と出場艇の間に、どうにも説明しにくいような垣根があったように思う。これがギクシャクの根本で、対して、ミドルボートの方は、大会会長以下各役員は自ら艇に乗り込んでレースに出場している。参加者=主催者だ。
ミドルボート選手権は、自分達で作り上げた自分たちのレガッタという自負がある。

と考えると、ジャパンカップの主催者とミドルボートの主催者(ミドルボート・オーナーズクラブ)は、「どちらも主催者という立場」というより、ミドルボートの関係者はジャパンカップの参加者という立場にいたのかもしれない。だから、話し合いがうまくいかなかったのかもしれない。

とにもかくにも、
こうして、ジャパンカップは、前年までは出場していた、1/2トン、3/4トン勢に、完全にそっぽを向かれてしまった事になる。

この頃のボクは、ジャーナリストとしての目でレガッタを見ていなかった。大会に出場する選手の目でしか、記事を書けていなかったと思う。
この頃もっときちんと問題点を指摘していたらどうなったか?

この年から、ジャパンカップは隔年開催となり、93年はお休み。
94年までは十分時間があったので、ミドルボートとダブルエントリー可能という所まではこぎ着けたが、結局関東のミドルクラスの艇はジャパンカップの方には出場していない。

■第8話 93年 なんでギクシャクか?(前編)

2008/10/07記

92年のコルムジャパンカップ。
この頃の、主催者と参加者の間のギクシャクはどうして起きていたのか?

16年も前の話で、オマケにまだNORCの時代な訳だから今更な話ではあるし、どこかに問題を起こしている中心人物がいるというなら解決もしようが、別に誰が悪いという訳でもないと思うので、こりゃなかなか難しい話なのです。

この後もギクシャクは続き、1998年には、JYAとNORCが組織統合に関する基本合意書を承認し、翌99年4月1日にはJSAFが発足するわけだけれど、92年に起きたグアムレースでの遭難事故と、その後の損害賠償裁判なんてのもあり、この間の5~6年は、NORC自体がかなり混乱していたのかもしれない。

その混乱の中で、セーラーは協会の事を、協会はセーラーの事を、お互いに理解し合えていなかったんだろうと思う。

いやまあ、協会はセーラーの事を理解するべきだし、さらに協会はもっともっと情報を公開して会員の理解を求めても良かったのでは無いかとは思う。

そんな乖離感から、会員側からすると当時ジャパンカップへの期待はほとんど無かったのではなかろうか? 隔年開催となって、「93年はジャパンカップ無し」と言われても、別段ガッカリした記憶もない。

ここで、ちょっと92年から94年に至る、日本と世界のヨットレース事情を見ていきたい。
どうもこのころ、日本のセーラーは、「ジャパンカップが無くても困らない」という状況にいたようにも思えるからだ。

92年、アメリカズカップの予選ルイビトンカップが始まり、日本も初参戦。テレビでバッチリ放映されていた。
アメリカズカップは米国アメリカキューブがイルモロ・デ・ベネチアを下して防衛に成功する。
バルセロナ五輪では、女子470クラスで、日本セーリング界に初のメダルをもたらす。
……でもなんだかマスコミの扱いは少なく、不憫であった。

8月にはメリットカップが行われ、国内でもちょっとしたマッチレースブームになる。
メリットカップは見るレースだけれど、参加するマッチレースとしても、鳥羽カップマッチレースなんてのがあった。

海外では、IOR50ftのワールドカップまだまだ続いていて、この年、日本艇チャンポサが初優勝している。

年表的にはバブル終焉のはずだけど、実際にはまだまだバブル景気は続いていたように思う。

ボク個人としては、6月に進水したトリップ36で、米国東海岸のブロックアイランドレースウイークに出場。エスメラルダチームが本格的に活動を始めたのはこの年から。
ブロックアイランドでは結構良い成績だったので、気持ちよく帰国。

夏にはケンウッドカップに取材に行っている。

記事には「世界的な不況だ」と書いてあり、ケンウッドカップの参加艇数もIOR、IMSそれぞれ18隻づつ合わせて36隻。最盛期の半分に減ってしまったが、2トンカップも併催されており、レースそのものは非常に中身の濃いものであった。

特にここで、IMS艇の艇速に、ボクは驚いている。
IOR、IMSの順でスタートするも、IMS艇がIOR艇に追いついてしまうのだ。

これまでのIMS艇のイメージは、速いことは速いけど、上りはやっぱりIOR、という感じだった。
それがこの頃から逆転し、IMSの方が速い──とこれは同じ全長で、あるいは同じ値段で、という意味でだと思うけど、確かにこの時ハワイで、ボクはそう感じたようだ。

自分では、何の因果か、73ftのケッチに乗ってこのレースに出ているワケですが……。

国内ではこの年、エスメチームはJ24の全日本を目指して猛練習に明け暮れていた。練習嫌いのエスメチームなので、この時の猛練習は今でもよーく覚えている。

ボクにとっての始めてのJ24クラス。11月に博多で行われた全日本選手権は45艇を集めかなり面白かった。
エスメラルダは17位に終わる。凡庸なようだけど、これでもものすごく楽しめるのは、ワンデザインだからだと思う。
ちなみに、この年、J24世界選手権の優勝はケン・リード。2位がクリス・ラーソン、3位ジム・ブレディー、4位テリー・ハッチンソン。すげーな、このフリート!!、

この年の秋には、BMW TOKYO CUP 関東外洋ヨット選手権も行われているが、こちらも台風の為「天気は良いのにノーレース」で中途半端な事になってしまっている。

明けて93年。
ジャパンカップはお休みだけれど、ゴールデンウイークには関東支部主催のビックボート選手権が行われた。
個人的には、トリップ36でミドルボート選手権に出場。ミドルボート選手権もこの年からIMSが採用される。

ちょっと長くなったので、この項、続く。

■第9話 93年 充実の相模湾 (ギクシャク後編)

2008/10/10記

93年、ジャパンカップはお休み。

これは、参加艇が集まらなかった訳ではない。ゴールデンウイークにはビックボート選手権として、NORC関東支部が主催するシリーズレースが行われ、IOR9隻、IMS9隻が出場している。
前年、92年の11月には関西でコルムカップ関西選手権シリーズが行われており、ここでは関東からの5隻を含む12隻のワントンが集まって第4回ジャパンワントンカップが行われている。
日本のレース熱は冷めてしまっている訳ではない。むしろ過熱していて、競馬でいえば、走る気マンマンの鼻息荒い競走馬が、今か今かとゲートが開くのを待っているという感じ。

その最中で、ジャパンカップは行われなかった。

混迷のジャパンカップを尻目に、ミドルボート選手権には75艇がエントリーし活況を見せている。

この年からIMSクラスも採用され、IOR、IMS、CRの3クラスになったわけだが、IMSボートと言われる新艇の多くはCRクラスに出場。「バリバリの新艇に出てきて貰っては困る」という本来のクルーザーレーサーの声も聞かれるようになる。

いや、まあ、気持ちは分かります。

何故なのか? やはり、「IMS計測の手間と金」これにつきるのではなかろうか。CRの方も結構進化しており、なんだかCRで十分という気分も広がっていたようだ。
後に、CRはORC-Cに吸収されるわけだけど。

ハンディキャップシステムをいくつも併行して用いるよりも、オーナーヘルムであるとか、クルーのプロ規定を儲けるなど、乗り手の違いによるクラス分けを工夫すれば良かったのになぁ、と思う。
とはいっても、オーナーヘルムクラスがこの世に出てくるのはこの後なので、この時点では、ま、しかたないですね。

個人的にはトリップ36でIMSクラスに出場。全レーストップで完全優勝を飾る。……といっても、7隻しか出ていないんですけどね。
狙っている訳じゃないんだけど、こういう勝ち方が結構多いんですよ。

まあ、勝ち負けよりも、この頃はヨットの上でパソコンを使う事に楽しみも見いだしていた。ブロックアイランドでオッカム社のスタッフと一緒に乗り、彼がノートパソコンを持ち込みインスツルメンツと接続し、あんなこともこんなこともやっちゃうという……うーん、これは面白い。
と、日本に帰ってからは自分でもヨットにパソコン積み込んでいろいろいじくっておりました。DOS/Vなんてのが出てきたのもこの頃。

この年には、オークランド福岡ヨットレース。
翌年には、環太平洋ヨットレース、と、大きな国際外洋レースも行われ、結構参加艇は多く賑わっていました。ワタシは上海コースへ。ああ、あの時の興奮は今でも忘れられません。ヨットレースというより、上海の街の興奮ですけど。レースの方は、風が無くて暑くて、マイッタという記憶が。

一方、アドミラルズカップでは、この年が最後のIORとなる。
IORそのものが衰退していたため世界最高峰と言われたアドミラルズカップでも参加艇を集めるのが難しくなっていた。

50ft、2トン、1トンの3隻で1チームの国別対抗戦だが、そもそもIORボート自体がほとんど無くなっていて、2隻1チームでも良し、上位2艇のポイントで競う、とされた。

Nippon、Swing、Champosaの3艇からなる日本チームも奮闘。5位に入る。

この後、アドミはIMSを採用したわけだけれど、やはりどうしてもIMSはグランプリには馴染まなかったようで、乗り組むクルーの国籍もまちまちという事もなんだか国別対抗の意義がそがれる原因になったのかもしれず……と、アドミの混迷はさらに続く。

この年の鳥羽レースは、参加183艇中161艇がリタイアするという大荒れの展開に。
思い出しますよねぇ。
と同時に、参加183艇ですよ。バブルは終わり、世界的な景気低迷とか言われている訳ですが、ヨットレースはまだまだ熱気に包まれておりました。

10月には、BMW TOKYO CUP 関東外洋ヨット選手権シリーズが行われる。43艇出場。
記事には「ついにIMS艇のエントリーがIORを超えた」とある。
とはいえ、IOR Aクラスは8艇のワントナーが揃うなど、内容充実。ワントンオーナーズクラブが活発に活動していたのもこの頃。

相模湾では、STCと呼ばれる練習レースが毎月行われており、これがまたしっかりした運営でした。春のミドルボートと秋の関東選手権、そして夏は鳥羽レース。と、相模湾はジャパンカップが無くてもダイジョウブな充実ぶりだったのだ。

■第10話 94年 春の油壺2度目のかけちがい

2008/10/21記

92年に「春の油壺開催」を強行し、ミドルボートとの関係がギクシャクしてしまったジャパンカップ。

93年はジャパンカップはお休み。

そして、94年は再び、コルムジャパンカップとして、ゴールデンウイークの油壺をベースとして行われた。

92年の「ボタンの掛け違い」を埋めるべく、この年はミドルボートとダブルエントリーが可能というところまではこぎつけたものの、ミドルボート勢からのエントリーは無し。
と、しっかりとボタンは掛け違ったままの状態だ。

この年、IMSクラスには18艇がエントリーした。
ワントン以上の大型艇はIMSの計測を受けてIMSクラスで出場しており、ワントン以下はミドルボートに出場しジャパンカップは無視。
よって、IORクラスには関東のワントンのみ9艇が出場し、ワントン全日本として併催された。

IMSはA、B、Cの3クラスに分けてそれぞれサイズを予め決めた上でエントリーを受け付けたわけだが、Bクラスは参加1艇。よってAクラスに統合されクラスは不成立。
Cクラスはわずか参加3艇。

ワタクシ、この参加3艇のIMS、Cクラスにエントリーし、全レーストップで最後のロングオフショアには出ずにブッチリギリの優勝を果たしたのであります。
これ、偉いのか偉くないのか? なんだかトホホなジャパンカップウイナーとなったわけ。

が、レースの方はミドルボート選手権で行っているので、強豪24艇が競う白熱した展開だった。だから「3艇しか出ていなかった」というイメージは無い。
ミドルボートの方はケン・リードが乗る<トレーサー>が優勝。ワタシらもケン・リードとは結構互角に戦ってはいたのものの、DSQがたたって5位に終わる。
んじゃ何か、ジャパンカップに勝っても日本一じゃないじゃん。という、ジャパンカップはそういうトホホなイベントに成り下がっていたのです。

ま、ジャパンカップにエントリーしてしまったワタシらが「空気読めていなかった」という事なのかも。

マム36が日本でデビューしたのもこの年。
ジャパンカップのIMSクラスで優勝している。

レースの方は、インショア4本、ロング、ショートと2本のオフショア、計6レースで行われているが、ロングレースをどうするか、でこの頃からもめている。多くの参加者は、ロングオフショアを楽しめていないのだ。

ミドルボートにはロングオフショアはないわけで、ボタンの掛け違いってのは、ここらの掛け違いもあるのかもしれない。

IOR & ワントン優勝の<からす>西村一広スキッパーが1994年7月号のジャパンカップ記事の中で書いたコラムが面白い。

ワントンオーナーズクラブから「ロングオフショアの代わりに別のインショアレースを行いたい」というレースコミティーの人格を無視するような、勇み足ともいえる提案があったようだが
  ↓
天候を見極めて
  ↓
ロングのコースを
135マイル→48マイルに短縮したのは
  ↓
世界のどのレースコミティーにひけをとらない決断だと思う

としている。

なんだか、最近でもこのての話はまだ続いているわけだけれど、これは日本だけの話ではない。
この年2月にニュージーランドで行われた「エア・ニュージーランドレガッタ」でも、420マイルのロングオフショアを前にしてゲイルウオーニングが出、レースは延期、そしてコース短縮をしている。

この時も、各艇のスキッパーを集めて意見を聞いていたが、中には「風が強くなりそうだから延期とか短縮とか、そんなオフショアレースは聞いたことがない」という人もいれば、はなから「マム36には420マイルなんて長すぎる」と言っていた人もいる。

インショアレースとオフショアレースは別々に進化しており、競技としての意味が異なってきているのに主催者側がそれに付いてこられていない、あるいは気が付いていない、という事なのではないかと思う。

この年、
ケンウッドカップでは、ILC40がデビュー、艇別優勝を飾っている。
ケンウッドカップでも、ロングオフショアのコースはどんどん短くなっているのは前にも書いた。

かといって、オフショアレース自体が廃れているわけではない。
個人的には、この夏、鳥羽レースでIMS総合優勝。

10月の関東選手権は、41隻集めて盛大に行われた。シャラクを始め、35~36ftのIMSの粒が揃い、大激戦だったのでよく覚えている。

この後、エスメラルダチームはトリップ36を売却するが、11月には日米親善マッチレース等を楽しくこなす。

翌95年の春は再びジャパンカップはお休みの年となるが、代わりにワントン全日本が行われ、これに出場。やっぱスクラッチレースは楽しいですなぁ。
で、これが世界最後のワントンのレースとなったようだ。出ておいてよかった。

そうそう、この時の優勝は<シーホーク>のバウワー・ベッキンですよ。今、VORでアフリカ沖を走ってます。

……と、個人的には、ジャパンカップがなくても全然困らない、というこの頃だった。

■第11話 96年 最後の油壺

2008/10/23記

95年はジャパンカップはお休み。
そして翌96年、ジャパンカップは3度目のゴールデンウイークの油壺開催となる。
結果としては、これが最後の油壺開催のジャパンカップとなった。

日程は、
1日目 インショア 1本
2日目 ショートオフショア(50マイル)
3日目 ショートディスタンス(23マイル)
4日目 インショア 2本
5日目 ロングオフショア(166マイル) 
6日目 ロングの続き 
7日目 インショア 1本 

と書くとかなりコッテリしたスケジュールだけど、ロングは風が無くて全艇フィニッシュできず。
最終日のインショアは前線の通過の為ノーレース。
7日間、大会前のインスペクションなどを入れれば9日間という長い日程のわりには、
レースは5本しか消化できていない。
これは単に天候のせいといえるのか?

オフショアレースをシリーズに入れようと思うと、スケジュールの進行は極端に悪くなる。オフショアレースといったって、風が強ければ中止や延期、コース短縮……なんてのが当たり前になり。しかし、順風が昼も夜も2日間に渡って吹き続ける事は少なく。となると「強風のため中止」か「無風で漂う」かどっちかになってしまう確立は高いワケ。

そのうえ、中途半端なショートディスタンスレースで1日をつぶしてしまうなんてもったいないことこのうえない。

風が弱くて全艇DNFに終わったロングオフショアに当てた2日間。インショアレースなら、3レースはこなせていたのではあるまいか?
ショートディスタンスの代わりにブイ周りやっていればこの日も2本。いや、この艇団なら3本だって可能。
となると、あと6レースも余計にできた勘定になる。

それでもロングをやるのか? というと、「ロング走らないでどこが外洋艇だ」という話になっており。
じゃあ、「ジャパンカップにはロングオフショアを入れなければならない」と決めたのなら、ロングオフショアが成立しなかった大会は無効って事になりますよね。強風が予想される時は、ロングはやらなくてもいいんですか? という、なんだか良く分からない事になっている。

……と、このあたりの主催者と参加者がヨットレースに求める要素のギャップは、今も続いているようで、まだまだ解消しそうもありません。
どっちがいいとか悪いとかの問題でもないし。

さて、この年、マム36クラスの全日本選手権も併催されている。
5艇のマム36クラスは先にスタートし、後から15艇の「その他の艇」がスタート。
でも、ジャパンカップはすべてをひっくるめた時間修正の上で総合1位に授与される。

このあたりの不公平さ。たとえば、ロングオフショアなんて、マム36がスタートしてからマークが流れたりなんかして、その他のクラスのスタートは40分後。この後急速に風速は落ち。これでも同じように時間修正して得点2倍……。と、どう考えても不公平なわけだけれど、別に誰からも抗議が出るでもなかったように記憶します。

今、これ書くために当時のKAZI読んでみたんだけど、ワタシも出場しているのですね。正直まったく覚えていないんですよね。そういえば出てたっけなぁ……って程度。

また、この時点で、日本にあるマム36は17艇。協会登録艇は14艇。で、初の全日本開催という事になるわけだけれど、なんで5艇しか出ていないのか?
記事にはちゃんと書いていないけれど、この日程に嫌気がさしたのではなかろうか、と勝手に推測いたします。

翌97年3月。西宮で第2回マム36全日本が行われ、こちらは9艇が出場。4日間で7レースを消化している。オフショアレースは組み入れられていない。

そして、この年(97年)の秋には、ジャパンカップは初の関西開催となる。

と、よく考えてみると、これまでジャパンカップはずっと相模湾で行われてきた。関西、中部の方々は、よくぞ毎年遠征して来てくれていたもんだと思います。

■第12話 97年 新西宮開催

2008/10/27記

これまで見てきたように、83年から始まったジャパンカップは、熱海から三浦~油壺に拠点を移してからは問題続きだった。

そして97年の10月。ジャパンカップは初めて相模湾を離れ西宮で開催された。
西宮開催に決定した経緯は知らない。たしか、「主催」という言葉を使わず、あえて「オーガナイズ:(社)関西ヨットクラブ」となっていて、「主催とどう違うんだろうね」なんて話していた覚えがある。
なんかいろいろ事情があったのでしょう。

それにしても、これまでのジャパンカップには関西から何隻もの参加があったからこそジャパンカップたり得た訳で、関西でやるなら関東からも遠征しなきゃ仁義がきれないってもんである。

ということで、関東からは、<カラス><エスメラルダ><ファウンデーション>の3艇が遠征。総勢29艇により非常に白熱したシリーズとなった。

トップを<アオバ><ドンキー>2艇の関西艇コレル45で競い、その後ろで関東勢の<カラス>と<エスメ>が大接戦を演じるという、結局はいつもの顔ぶれでの勝負だったんですけどね。

運営は極めてキッチリ行われていて、なんら口を挟む余地は無し。純粋にレースを楽しめた。

エスメはILC40で出場。
この艇、95年に進水しそのまま6月にブロックアイランド。7月にニューポートでIMSナショナル。8月にはニューヨークでIMSインターナショナルと転戦。
96年1月のキーウエストからはケン・リードが乗るようになり、7月にギリシャで行われたILC40の世界選手権に出場した。

これまで何度か書いたけれど、IMSがグランプリクラスとして成功できなかったのはILC40クラスがうまくいかなかったからだと思う。
なぜIMSではレベルレースができないのか。理由は前に書いた。

世界選手権は<ブラバ>が優勝。エスメは2位に終わったけれど、優勝のカップは直径が1.5mはあっただろうか。ギリシャ海軍の水兵4人がかりで担ぐようなしろもので、オーナーと、
「いやー、優勝しなくて良かったですよねぇ。あんなの持って帰れませんよ」
と冗談を言っていた。
これが、由緒正しいワントンカップだったらしい。

ギリシャの後、船は日本に持って帰り、秋に関東選手権を走り、そして西宮に遠征となったわけだ。

このあたりの話は、KAZI誌に『エスメラルダの20ヶ月』として詳しく書いた。
当時はすでにIMSもルールチートが進んでおり、ジャパンカップ時点では浮いたばかりの<カラス>のハンディキャップ値はたいへん美味しい物で、「これじゃオイラ達、勝てっこないわな」という状態だった。

もちろん、どんなにおいしいハンデを貰っていてもヘタッピが乗っていたんじゃ勝てないわけですけどね。

2007年のジャパンカップを報じているKAZI誌98年1月号で、現在のIRCの前身であるIR2000の記事が出ている。これ、今読むとなかなか面白いですよ。自分で書いておいてなんですが。古いKAZI誌引っ張り出してきて読む価値ありです。111ページから。

ロングは淡路島の方まで行って帰ってくるようなコースで、途中で風が無くなってコース短縮。コレル45は知らずに走り続けていたような覚えがあります。

以降、KYCではロングに見切りをつけて、インショアブイ周りのみのジャパンカップとし、毎回キッチリ運営しているというわけです。
で? 次回は新規定にしたがって西宮でもロング入れるんでしょうか?

■第13話 99年 そして葉山

2008/11/11記

97年。ジャパンカップは初めて相模湾を出て西宮に。なかなか盛大であった。運営もしっかりとしていた。

翌98年は東海で行われる事になったが、参加艇不足の為中止に。
92年から隔年開催だったわけだけれど、ここで初めて「参加艇不足による中止」という情けない事になってしまった。
参加艇不足の理由は、開催決定の遅れにあったのではなかろうか。

そして、99年の葉山。
「異種格闘技にも似たその戦い」と評されたと、ワタシの「ジャパンカップ史」第1話で書いた記事につながるというワケ。

自宅の近くなので歩いて見に行ってみたが、会場となった葉山新港の中には入れて貰えなかった。
おそらく、関係者以外は立ち入り禁止という条件で葉山新港開催になったんだろうと思う。
なんとかゴネれば入れたんだろうが、さっさと諦めてそのまま家に帰ってしまった。だからこの回はまったく見ていない。

記事からすると、17艇出場。ファースト40.7が総合優勝。
クラス毎にスタートは別々で、総合優勝を決めるという形だったようだ。

ここで、プロダクションのクルージング艇であるファースト40.7が優勝した事に筆者の松本氏は戸惑っている。
10年ぶりにジャパンカップを取材したとあるから、おそらく、筆者の頭の中にあるレース艇のイメージはIORボートで、ファースト40.7みたな艇種が優勝しちゃうなんて、グランプリレースでは無い、と感じたのかもしれない。

その後も、40.7の活躍は続く。
2000年のケンウッドカップでも、ワタシが乗ったファー52ft最新艇の<エスメラルダ>はオーストラリアの40.7に総合成績で負けている。まったく別のスタートで、レース中は遠目に見るだけ。こんもりと丸い船体がビーチボールみたいに見えたので、ビーチボールズ
(兄弟で2隻の同型艇に乗っていた)と呼んでいた。

あれから10年。今でも40.7は優勝を争える状態にあるわけで、これって、IOR時代に多くの人が望んでいた姿なんじゃないかとも思う。とはいえ、それが「グランプリ」というステータスを消失させている、とも言える。
難しいものだ。

……とまあ、これはハンディキャップルールによる問題。

ジャパンカップには、ハンディキャップとはまた別の開催地の問題がある、
83年から始まったジャパンカップは、87年以降、三崎、油壺に場所を移してからは問題続きだった。
97年の西宮開催は、「油壺開催がとうとう行き詰まったから」実現したと見てもいい。
97年の西宮でジャパンカップは息を吹き返した。
しかし、次の開催地決定でまたフラフラし始め、結局98年は開催にこぎつける事ができず。99年の葉山でなんとか持ち直した。と、そんな、非常にアブナイ状況にあった。
だから、冒頭の記事でワタシは、
「葉山大会が開かれるに至った経緯を考えると、この時は良くぞ開催にこぎ着けたと評価しても良かったかもしれない」
と書いた。

ハンディキャップルール問題とは別に存在する開催地問題では、何が障害になっていたのか。
泊地の問題なのか、人的問題なのか、金銭的問題なのか。そこをきちんと検証できていたのか。

以降、
2000 西宮
2001 浦安
2002 西宮
2003 江ノ島
2004 西宮
2005 蒲郡
2006 シーボニア
2007 西宮
2008 蒲郡

と、無事毎年開催されてきたものの、ワタシが見る限り、浦安でも江ノ島でも05年の蒲郡でも、参加者と主催者とのギクシャク感はいなめなかった。
「二度とやりたくない」
と言った主催者もいた。
「二度と出ない」
と言った参加者もいた。

いったい何が原因でギクシャクしてしまうのか。参加者、主催者双方で、深く考えないと。無駄に時間と金を浪費するだけになってしまう。

ということで、便所の落書きと言われようが、「ワタシのジャパンカップ史」はまだまだ続く

■第14話 2000年~2004年

2010/08/03記

ということで、1983年の熱海から始まったジャパンカップは三崎に場所を移してからなんだかギクシャクし、それでもなんとか1997年の西宮で息を吹き返し、1999年の葉山でなんとか持ちこたえていた状態。

で、続きです。
ジャパンカップ2010を前に、今週来週と2回に分けて、2000年から2009年までのジャパンカップをざっと振り返ってみます。

2000年 西宮

10月末~11月にかけて行われた。参加10艇は微風で苦労したようす。全9レースが予定され、3レースが微風の為中止。49マイルのミディアムコースも微風で中止になっている。
2010年は西宮沖の海域でオーバーナイトのコースが設定されているが、どうなんだろうか?

優勝はジョン・コーリアス以下4人の外人助っ人が乗る〈ドンキー〉(コレル45)。

2001年 浦安

2001年からは、JSAFのホームページにまとめてある。
が……、さっそく2001年の浦安大会のページのリンク先が無い。
このときは表彰式が終わった後で、集計の間違いが発覚(というか、翌日ワタシが記事を書いていて気がついた)。なんだか無茶苦茶になったのであった。

そもそも熱海で行われるはずが、予算不足の為急遽東京湾開催になったもので、どうもこのころの関東水域はかなり混乱していたもよう。

1999年の葉山大会ではクラスBだったファースト40.7がここではクラスAになっているし、そもそも、IMSだけではなくORCクラブも含めるのか否かという部分でも、全国的なコンセンサスが得られていない。

ロングは、海ほたるを回ってくる約20マイルのコース。ロングではないですね。

ということで、優勝は東海の〈パラフレニアン〉(ファースト40.7)で変わりはなかったはずだが、それ以外は不明。

2002年 西宮

前年8月、西宮でJ24ワールドを行い夏の西宮沖が選手権試合を行うのに適したコンディションであることに定評が生まれ、この年のジャパンカップも8月に開催。
期待通り午後からのシーブリーズは吹きまくり、逆にトラブル続出となったもよう。
とはいえ、風は無いよりあった方がいい。

15隻のIMSボートのみでジャパンカップを競う。
翌週、Japan ORC ‘C’ CUPが17艇を集めて開催される。

優勝は、バウワー・ベッキンが舵を持つスイング (farr40)  

2003年 江ノ島

秋の相模湾。IMSのジャパンカップ部門に20隻。週末はORCクラブカップが併催されこちらに15隻がエントリー。

レガッタは4日間で、インショア5本と90マイルのオーバーナイトを予定していたが、風に恵まれなかったこともあり、インショア2本とロングしか成立しなかった。

ロングも微風に終始し、おまけにトップ艇フィニッシュ後に一気に吹き上がったため小型艇有利な展開に。そしてこのロングの配点が1.5倍ということで勝負の行方はなんだかどうも……な大会だった。

2004年 西宮

8月の西宮沖は良いシーブリースが吹く……はずだったが、この年は軽風に終始する。
それでも、すべてインショアブイ周りのみということもあり、5日間で全7レースを消化している。

フリートはIMSの大型艇のみ。
すでにGS42Rが台頭しはじめ大混戦となったようだが、最後は〈スレッド〉(ファー47)が優勝。
(次週に続く)

■第15話 2005年~2009年

2010/08/10記

さて、今日(8月10日)は、2010年度のジャパンカップの第1レース。12時スタートとのことなので、今頃は各艇ワクワクしながらスタートを待つところか。

ヨットレースというのは、スタートラインに着くまでが一苦労で、特に選手権試合となるとひとしお。この緊張感はジャパンカップならではのもので、毎月のクラブレースでは味わえないものだ。やはりジャパンカップは存続させなければならないと思う。

で、過去を振り返る……

2005年 蒲郡

22隻のIMS艇を集めて9月に開催された。

98年に中部開催がスケジュールされたが、参加艇不足のために中止になっている。アナウンスが遅かったのかなんなのか、残念なことだ。
ということで、この年、初めての関東、関西以外での開催ということになった。

すばらしい泊地。レース海面まではちょっと遠いが海面そのものはインショアレースをするのにまったく問題ない。
が、三河湾の奥深くにあるので、オフショアコースを設定するのが難しい。
伊良子水道を越えて五カ所の方まで、往路約50マイルがショートオフショア。そこから帰ってくる復路を含めた往復約100マイルがロングオフショアということで、全8レースが組まれた。無風の為1レース不成立になったがロングオフショア含めて、スケジュールは難なく消化された。

優勝はスレッド(farr47)。2位から3位まではGS42R。細身箱形船形全盛時代に、スレッドの優勝はなかなかのもの。

蒲郡は、関東、関西の中間にあり、ミドルボートサイズの艇でも回航が容易。全日本クラスの選手権を行う適地だと思う。
そして、こうして前後を振り返ってみると、かなり盛り上がった大会だったといえるのではなかろうか。
ちなみに、JSAF東海のホームページも、キッチリまとまっていて見やすくて、好感度大。

2006年 小網代(シーボニア)

9月、IMS18艇を集めて行われた。
クラスA、クラスBに分かれていたが、総合上位はすべてクラスA。

3連覇を目指す〈スレッド〉(farr47)を押さえて〈セレッソ〉(B&C49)が優勝している。

クラスBでは、〈光風〉(ファースト40.7)がダントツの優勝を果たしているが、なんとなく陰が薄くて気の毒な感じ。
この回、GS42RはクラスAだったが、翌年にはクラスBになっていたりとクラス分けの基準はハッキリしていない。ジャパンカップ・クラスBの存在感を増す為には、単に参加艇を艇数で半分に分けたというのではなく、「ミドルボート」という普遍の規格が必要だろうと思う。

木曜日から月曜日(祝日)までの5日間。夜にはフィニッシュできるオフショアレースを入れて全部で8レース消化している。

ディスマストも出るような強風のシリーズであり、これはこれで運営は苦労したと思うが、キレのいい運営で多いに盛り上がった印象がある。

2007年 西宮

この年も8月に開催。13艇を集めて行われた。
35マイルのショートディスタンスを含めて全16レース!! 5日間でこんだけって、どんだけ!!

参加13艇は、クラスA、クラスBの2つに分けられ、見所はクラスBのGS42R軍団なんだろうけど、総合順位はクラスA、クラスB入り乱れており、こういうのって、記事書くの大変なんですよね。ポイントをどこに絞ったらいいものか。
で、筆者の友人、今津浩平氏が書いてるんですが、たった2頁ってのはどうなんだろう。さらに書くのが難しい。

そして総合優勝は、クラスBの〈シーホーク〉(GS42R)。シドニー五輪日本代表の浜崎栄一郎が舵を持ち、久々のジャパンカップ優勝。ここまで、惜しいところで優勝を逃している姿を間近で見ているので、この優勝はどんだけ嬉しいか、想像に難くない。
そして世良直彦オーナーはこの後病に倒れ急逝されるわけで……。

2008年 蒲郡

9月 15艇を集めて行われた。

この年から、IRCを採用。
IMS(ORC-Iに名称は変更されているが)部門も設けていたが、エントリーが1艇のみということで、IRCのみが成立している。

インショア6本とオフショア1本。
オフショアはやはり五カ所の湾口まで行って帰ってくるオーバーナイトのコースだったが、台風の接近により、40マイルのコースタルレースに変更されたものと記憶している。
(直接見に行ってないので分からない。舵誌の記事にも書いてない)

クラスAでは〈スレッド〉(TP52改)が優勝。クラスBでは〈サマーガール〉(ファースト40.7)が優勝。
舵誌の記事を読むと、帆走指示書では両クラスにジャパンカップが授与されるとあったのに、結局は総合優勝の〈スレッド〉にのみジャパンカップは授与された、とある。

そういえば、ジャパンカップというのはどんなトロフィーなのか? ワタシも一度は獲得したことがあるはずなんだけど、よく見なかった。今度しっかり確認しておこう。クラス優勝のカップというのは存在するのか?

さてここで、〈スレッド〉は3度目の優勝。
いずれも、大型艇の先行逃げ切りというもの。
端からは楽勝に見えるが、乗ってる方はこれはこれですごいプレッシャーなんだそうな。
で、2007年西宮での〈シーホーク〉の優勝もすごいなぁと思うし。
これだけサイズの違う艇でのハンディキャップによる選手権試合というのは、走っているほうも難しいし、記事にするのも難しいのです。

2009年 小網代(シーボニア)

ご承知のように、大会前に直撃した台風により泊地が壊滅的な被害を受け、中止となった。

こうしてみると、97年以来、ジャパンカップは西宮を中心として、後は持ち回りで開催されているといってもいいくらい。
筆者は自分で参加した97年以来、西宮には取材にも行ってないのでレースがどんな状況で行われていたのかは良く分かっていないのだが、どうやら「西宮のジャパンカップ」というスタイルは確立されているようだ。

で、今年は取材に行けというGOが出た。
マレーシアに住んでいるワタシにですよ。わざわざ国際線の飛行機に乗って、取材に行かせて貰える。ありがたいことです。
経費削減の為、中国東方航空、上海経由関空行きという、なんかヤバイものではありますが。無事に着けるのか、俺。

そのうえ、なんと8頁を予定しているそうな。これ、過去最大級の扱いなのでは?
ということで、過去のジャパンカップ史を振り返ってまとめておきたかったんです。

明日夜、こちらを経ちます。
ちょうどレース艇がオーバーナイトインショアを走っている間、ワタクシ、中国東方航空機中の人ということになります。

■(番外編) 2010 ジャパンカップ終了

2010/08/17記

インスペクションから入れれば全部で9日間に渡る長いシリーズを締めくくる表彰式は、ホテルの会場を使って盛大に行われました。
チーム毎に着席で夕食&酒という本格的な表彰式で、なんだかとっても感動的。

この感動はどこから湧き出てくるのか。
各チームの団結力と申しますか、仲間意識と申しますか、そんなのがにじみ出ているからなのかなぁ。
やっぱり人生で一番重要なのは、「いい仲間」なんだろうなぁ。

レース艇のオーナーというのは、単にお金を出せばできるというものでもないわけで。
いや、誰か優秀なプロジェクトマネージャーを立てて良いクルーと良い船を用意させれば、強いチームは簡単にできるんだろうけど、それじゃオーナーではなく単なるスポンサーに過ぎず。

レースチームを率いるレース艇のオーナーというのはそうそう簡単に務まるものではなく、それを長い年月続けてジャパンカップまで駒を進めてきたのが、ここに集まったオーナーとその仲間達なわけです。

表彰式が感動的なのは、そんな彼らが歩んできたここまでの道のりが伺い知れるからなのかもしれません。

優勝は、KYCの古豪〈SWING〉。
父の代から続く〈SWING〉という大看板を、見事に引き継いだということになります。
〈SWING〉チームの皆様、優勝おめでとうございます。

レースの詳しいことは、現在ねじりハチマキで執筆中。
9月5日発売の『KAZI』10月号をご覧下さい。

帰りの飛行機の便が取れず、昨日も1日梅田泊。
だいたい文字数は埋めたんだけど……。
これから関空へ向かいます。


と書いたのが、2010年8月17日。
2011年から先は、JSAFでwebサイトができている。

Japan Cup - 全日本外洋ヨット選手権大会
HTML framework description

このwebサイトはワタシが提案したものなんだけど、ここに83年の第1回からまとめてデータ載せましょうよと提案したんだけど、予算がつかずに放置されている。
で、2017年を最後に、大会の方も成立していない。このままだと、再開は無理そう。
ここに、何か良いニュースが書けますように。

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